
若い世代の間では知名度が薄れつつありますが、2013年に65歳で亡くなった大滝詠一さんは日本の音楽界に多大な貢献をしてきた人です。
近年は新作をほとんど発表せず、仙人のような生活を送っていたとも言われています。
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1.印税収入1億円でも、ほとんど表舞台に出ずマイペースの生活
大滝詠一さんの名前は40代以上だと知っている人も増えますが、若い世代の知名度が高くない理由の1つとして、表舞台にあまり出なかったという点が挙げられます。
テレビ嫌いで知られた大滝詠一さんは出演番組の大半がラジオに限られ、それも近年は親交のあった山下達郎さんの番組に新春ゲストとして出演する程度だったのです。
音楽アーティストとしては1980年代に2枚のアルバムを発表していずれも大ヒットを記録しましたが、80年代後半以降は稀にシングルを発売するだけで極端な寡作を貫いてきました。
むしろ得意の作曲能力を生かして他の歌手やアーティストに楽曲を提供したり、アレンジやプロデュースを手がけたりして音楽活動を続けてきたのです。
ヒット曲を生み出すセンスには長けていた大滝詠一さんだけに、印税収入も1億円は超えていたと推定されます。
近年は仙人のようなマイペースの生活ぶりが噂されていたように、贅沢を避けて質素に暮らしていた様子が窺えます。
2.作曲・編曲・音楽プロデューサーの仕事が大半
岩手県出身の大滝詠一さんは小学生時代に出会ったアメリカンポップスの影響で音楽に目覚め、高校時代には授業料を全額レコード購入に注ぎ込んだことが発覚して退学させられたほど音楽を熱狂していました。
早稲田大学在学中に細野晴臣さんや松本隆さん・鈴木茂さんとロックバンド「はっぴいえんど」を結成し、1970年当時としては画期的だった日本語によるロック演奏を試みます。
日本のロックバンドの草分け的存在として伝説化されているはっぴいえんどの活動も、商業的には不成功に終わって長続きしませんでした。
ソロに転じた大滝詠一さんはナイアガラ・レーベルを設立し、短期間で多数のアルバム制作を試みます。
なかなか売れなかった大滝詠一が大ブレークしたのは、1981年に発表したアルバム「A LONG VACATION」でした。
このアルバムが大ヒットを記録し、大滝詠一さんはシンガーソングライターとしての地位を確立したのです。
3.1980年代にはシンガーソングライターとしても活躍
「A LONG VACATION」の大ヒットから3年を経て1984年に発表されたアルバム「EACH TIME」もオリコンCDチャートで1位を記録しましたが、大滝詠一さんは以後シンガーソングライターとしての活動を休止します。
1997年と2003年にシングル曲を発表しただけで、「EACH TIME」が実質的に最後のオリジナルアルバムとなったのです。
この間の大滝詠一さんは断続的に作曲活動やプロデューサーとしての活動を続けてきましたが、旧譜のリマスタリングや音源復刻の監修といった仕事も少なくありませんでした。
ラジオの特別番組にもDJとしてしばしば出演してきましたが、アメリカンポップスなどの洋楽から邦楽まで豊富な知識を持つ大滝詠一さんは音楽研究家としての側面も持ちます。
作曲・編曲・プロデュース活動の傍ら、マイペースでそうした研究活動を続けてきました。
マニアックなファンも多かった大滝詠一さんは常に新作アルバム発表を期待されてきましたが、ファンの夢は叶うことなく終わったのです。
4.「ママ、ありがとう」が最期の言葉
2013年も終わろうとしていた12月30日、大滝詠一さんは自宅で家族とともに食事をしている最中に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。
リンゴをのどに詰まらせたというのが家族の説明でしたが、実際には解離性動脈瘤が死因とされています。
数日前から体調を崩していたという大滝詠一さんは、妻に向かって「ママ、ありがとう」と突然叫んで倒れたことが明かされており、これが最期の言葉となりました。
現在に至るJ-POP隆盛の基礎を築いた功労者の1人と言われる大滝詠一さんの音楽活動を、妻を始めとする家族が支えてきた様子がこうしたエピソードから見て取れます。
死の翌年に行われたお別れの会にははっぴいえんど元メンバーの細野晴臣さんや松本隆さんを始め、佐野元春さんやあがた森魚さん・甲斐よしひろさんなど多くの音楽関係者が集まりました。
自身名義の新作はなかなか発表されないマイペースぶりでしたが、大滝詠一さんは音楽界で「師匠」と呼ばれて慕われる存在だったのです。
5.駄洒落やジョークが好きな人柄
大滝詠一さんの代表曲と言えば、大ヒットを記録したアルバム「A LONG VACATION」の1曲目を飾った「君は天然色」が挙げられます。
夏のイメージに彩られた爽やかなメロディと歌声が印象的なこの曲に代表されるように、1950年代から60年代頃のオールディーズナンバーを思わせる曲調が大滝詠一さんの作風です。
しかしながら大滝詠一さんにはそうした一般受けのしやすい作風だけでなく、ノベルティソングまたはコミックソングと呼ばれる作風の曲も少なくありません。
本人も駄洒落やジョークが好きな性格で、出演していたラジオ番組でもそうしたお茶目な人柄がリスナーに親しまれてきました。
1980年代に一世を風靡した漫才ブームの中で結成された「うなずきトリオ」の「うなずきマーチ」は、大滝詠一さんが作詞作曲からプロデュースまで手がけた曲です。
民謡歌手の金沢明子さんが歌った「イエロー・サブマリン音頭」でも、ビートルズの名曲を行進曲風の音頭にプロデュースした大滝詠一さんのユーモアセンスが発揮されています。
マイペースな生活で余生を過ごした大滝詠一
大滝詠一さんはシンガーソングライターとして継続的に新作を発表し続ける道を選びませんでしたが、独自の音楽活動を続けて日本のJ-POP確立に大きな役割を果たしてきました。
晩年はそれまでの作曲や編曲・プロデュースなどで得た印税に支えられた生活だったと想像され、ライフワークの音楽研究に残りの人生を捧げたのです。